ここから本文です。

復興と震災の記憶

【普代村】普代水門・太田名部防潮堤

普代水門の現地ガイドを行う、普代村政策推進室の前川正樹さん

明治29年の明治三陸地震、昭和8年の昭和三陸津波で多くの被害者が出た普代村。
津波の被害から村を守るため建設された普代水門(昭和59年完成)と太田名部防潮堤(昭和42年完成)は、平成23年の東日本大震災津波の際、村への大規模な浸水を食い止める役割を果たしました。

「二度あったことは、三度あってはならない」

 普代水門と太田名部防潮堤を建設したのは、10期40年にわたり普代村の村長を務めた和村幸得(わむら・こうとく)村長です。自身も昭和8年の津波を経験していた和村村長は、明治津波の15.2メートルを超える15.5メートルの高さにこだわり、巨大な普代水門を完成させました。昭和54年に完成し「万里の長城」と謳われた宮古市田老地区(当時の田老町)の防潮堤の高さが10メートルだったことを思えば、高さ15.5メートルの水門はいかに壮大な計画であったか想像に難くありません。
 普代水門の現地ガイドを担当している普代村政策推進室の前川正樹さんのお話です。
 「普代村は小さく貧しい村です。津波の遡上を食い止めるためだけに35億円を投じる和村村長の計画には、当時反対の声も多く上がりました。いつ来るかも、来るか来ないかもわからないものに、そんなお金をかけている場合ではない、とも言われました。それでも和村村長には、津波は必ず来る、という確信があったのでしょう。津波が来たとき水門が無ければ、村民の生命と財産を守ることはできません。平成23年の東日本大震災津波の際、普代水門では過去の津波をはるかに超える23.6メートルの津波が記録されました。津波は水門を超えましたが、勢いは削がれ、衝撃は抑えられたたため、普代村の中心部は大きな被害を免れました。『二度あったことは、三度あってはならない』、これは普代水門建設にあたって信念を貫き、事業を完遂した和村村長の言葉です。東日本大震災津波から2年後の平成25年3月11日に、この言葉を刻んだ石碑が普代水門前に築かれました。」

普代水門前の石碑

普代水門の前には「二度あったことは、三度あってはならない」
和村幸得村長の言葉を刻んだ石碑が建つ

津波の浸水高ラインが示された普代水門の門柱

普代水門の5つのピア(門柱)のうち一番南側には、
東日本大震災津波の浸水高26.6メートルのラインが示されている

漁港と一体となった、命を守る防潮堤

 普代水門から約1.2キロの太田名部地区にある太田名部防潮堤も、和村村長が進めた津波対策です。こちらも15.5メートルの高さで建造された巨大な防潮堤です。津波を受け流すアーチ型の構造や、漁港の消波ブロック等と一体となって津波被害を軽減するように計算された設計であることを、航空写真を見せながら説明する前川さん。「和村村政下で、生活や収入を向上させるための地域の漁港の整備と同時に、津波対策が進められました。住民の理解を得るために、とても賢いやりかただったと思います。」
 東日本大震災津波を経て、村民から改めて感謝と尊敬の念を集めた和村村長。人々の命を守る信念の結晶でる巨大な建造物と、地元ならではの話が飛び出すガイドとの出会いが待つ普代村を訪れてみませんか。

太田名部防潮堤

山に囲まれた地形と、目の前の漁港。
全てが一体となって住民の命を守った太田名部防潮堤

空から見た普代水門の様子
(2011年3月28日撮影、普代村提供)

空から見た太田名部防潮堤の様子
(2011年3月28日撮影、普代村提供)

普代水門・太田名部防潮堤のお問合せ先 普代村政策推進室
電話:0194-35-2114

立ち寄ってみよう

浜の産直 きらうみ

普代水門の海側に広がるのが、普代浜園地キラウミです。夏の海水浴はもちろん、緑地広場や野外炉、温水シャワーなどもそろっており、レジャーに最適。一角には浜の産直きらうみがあり、普代村の漁師直送、新鮮な海の幸や加工品などを販売しています。春から秋にかけて、店頭には海産物などの炭火焼コーナーも登場。普代水門見学の拠点にご利用ください。

  • 営業時間/10:00〜17:00
  • 定休日/不定休
  • お問い合わせ/0194-35-2114(普代村政策推進室)
浜の産直きらうみ

取材・編集

新里真美子(編集工房Kuva)